すぎもと歯科院長 杉本英之
歯科医への道
私は昭和51年12月24日大雪のクリスマスイヴ、杉本家の次男として生まれました。
其の翌年には弟が生まれ、男ばかり3兄弟となり、二つ上の兄、一つ下の弟、二人の間に挟まれ、親の目が届かないのを幸いに、なにかと悪さをしては親をはらはらさせていたようです。もちろん、私はまったくおぼえのないことですが・・・近所の方にも時々言われますのできっとそうだったんでしょう(笑)
ところで、百日咳を皆さんご存知ですか?
本当に百日くらい咳が出て、食べたものを直ぐ吐き出してしまう厄介な病気ですが、2才ごろにその百日咳をやり、すっかり痩せてしまいました。
そのせいか体が小ぶりで、弟の方が兄だと殆どの方に間違えられていました。末っ子でのびのびと育った弟には、腕力でも、かないませんでした。兄弟3人けんかもしましたが、遊び相手に困ることはありませんでしたね。
腕力ではかなわないので、せめて学力は!!と思ったわけではないのですが、小さい時から本好き・勉強好きの兄にも影響をうけ(サボるとしかられたので?)、勉強はがんばってやりました。
中学は兄の後を追って滝中に入学しましたが、受験を控えた小6の秋、体育の授業中に右手を骨折してしまい親や先生を慌てさせたことも・・・・
しかし其の時の私は母親の愛情を独り占めにでき、『いままでで一番嬉しそうだった。』と母は懐かしそうによく言います。
その後、兄は小さい時からの希望どうり外科医への道を邁進し、なんとなく『家業はお前に任せたからな。』という雰囲気に。
素直な(?)私は、その後 歯学部をめざすことになるのですが・・・・・それからがたいへんでした。
またまた、受験をひかえた高校3年の6月ごろから体調をくずし、(原因はどうもプレッシャーからくる神経性胃炎のようでしたが、)全く勉強どころではなくなってしまったのでした
それでも、家族のみんなに支えられ無事 国立岡山大学歯学部に合格!!
いつも厳しい兄も、この時だけは 良く頑張ったと、褒めてくれました。
それは、あの阪神淡路大震災の年のことです。
受験はもちろん入学してからもしばらくは、新幹線・在来線とも不通で、JALの臨時便で岡山入りしました
まだ体調に不安のあった其の時の私にとって、空からは45分くらいで着いたのでありがたかったですが、歴史に残る大変な年になりました。
岡山は静かな落ち着いた城下町で、物価も安く、更に大学の歯学部は
一学年60名で、そのうち女性が半数以上、のんびりと楽しい大学生活を送ることができました。
卒業後江南から通うことのできる岐阜の朝日大学歯学部付属病院矯正科勤務(日本矯正歯科学会認定医取得)、其の後、父の一般診療を手伝いながら、15年前父に代わり院長就任現在に至っています。
現在家族は、歯科衛生士の妻と娘2人です。